本作を読むにあたって最初に触れずにはいられないのは、その筆致である。『塔』という作品を組み立てている文章は一文一文が巧みに計算されたオブジェのようだ。少し日本語の文法とそれにまつわるジレンマの話をしておこうと思う。分かりやすい文章を書こうとするのならば、結論から言えば、日本語は主語と述語(主部と術部)をくっ付ければくっ付ける程、読みやすく分かりやすくなる。私は様々な文章作法の本を読み漁ってきたが、概ね結論は同じようなものだったと記憶する。とにかく主語と述語の関係を気にするかどうかで日本語の文章の読みやすさは変わる。本格的な話を始める訳にはいかないが(これはあくまで『塔』についての話なので)、例えば「私」という主語から始める文章があったとする。
「私は塔という本を読もうとしている」
ここで主語は「私」となり、述語は「読もうとしている」となる。厳密には異なるのかもしれないが、概ねの理解としてこう定義しておく。そして、この主語と述語の中に文を挟むことで、様々な彩りが出てくる。
「私は久しぶりに塔という本を読もうとしている」
「私はもう捨てたと思っていた夢を諦められずに、自らの原点となった作品である塔という本を読もうとしている」
「私は引っ越すたびに本棚を買い替えているのだが、常に棚の目立つところには一冊の本が入っていて、それは学生時代にふと立ち寄った古本屋で見つけたものなのだが、福永武彦の塔という本で、久しぶりに手に取って読もうとしている」
こうして主語と術語の間にまた主語と術語を入れたり、術語を二つ出して繋いでみたり、色々な手法で元々の主語と術語のみで成り立つ文章を膨れさせられるのである。だが、これらは少し読みにくい。読みやすくしようとするなら、少し中身を削った方が良さそうだ。ただし、読みやすさのために削りすぎると文章が淡白になってしまう。「私」と「読もうとしている」の間にどれ位の内容なら適切だと言えるのだろうか。また、一文を区切るという手法もある。上の例で言うならば、
「私は引っ越すたびに本棚を買い替えている。常に棚の目立つところには一冊の本が入っている。それは学生時代にふと立ち寄った古本屋で見つけたものだ。福永武彦の塔という本だ。久しぶりに手に取って読もうとしている」
こう直してしまえば読みやすくなる。リズムもいい。だが、これを何ページも続けると次第に文章が単調になってくるので、時々は文章を繋いでしまいたくなる。この文章の区切り方には美的感覚が必要だろう。先に述べた「主語術語の間にどれだけの文を詰めるか」、そして「主語術語の区切りをどう意識するか」、これらを突き詰めて行くと一つの理想に辿り着く。
「読みやすくて、さらには内容も彩りがある文章」
こんなに欲張りな文章を日本語で追究する時はいつでも、主語と述語の問題と向き合わなければならない。美しくしようとすればするほど読みにくくなるが、読みやすくしようとすればするほど素朴にならざるを得ない。このジレンマと日本語は戦う宿命にあると思う。話が少し遠回りになったけれども、福永武彦の『塔』はその美意識にしっかり挑んだ稀代の作品だ。本文を少し引用してみよう。
僕は塔の中にいた。塔は一つの記憶だった。しかし僕は明かにこの記憶を探り出すことが出来ない。僕は今や記憶さえも喪ったのだろうか。そして僕は、自分が今、時の流れのどこに立っているのかを知ることも出来なかった。ただ不安と絶望と恐怖との中で、痴呆のように佇んでいた僕にも、塔は希望と光明と幸福とを舞台として、恰も夜を貫く閃光灯台の灯のように、過去の断片を再現した。
作者の福永は詩の分野でもその名を知られる。こうして一節を引いただけでも、字句の隅々までに意識を配ったバランス感覚と、音読と黙読のどちらのアプローチからでも実感できる音の心地よさが伝わってくる。一文のみの完成度を求めるのではなく、総体としての文章の出来栄えも意識されている。まるで数学的な理知の上に成り立つ美術品のような趣がある。日本語の特性を知り尽くしていなければ、このように主語と述語の間合いを絶妙に扱えまい。まるで黄金律を駆使して作られる、端正な小細胞の如き文章である。
ではこのような精緻な文を土台として語られる作品はどのようなものだろうか。実に本作は巧みな構造を持っている。しかしそれは一文の段で心を砕かれた硬質的な趣を引き継ぐのではない。私が『塔』を傑作と断じるのは、先で語ったような機能性と実用性を兼ね備えた均整な文章を用いて、多彩な解釈を許す世界観で物語を構築しているという点にある。とりわけ、アレゴリーという手法を用いて。
アレゴリーは日本語に訳すと「寓意」である。広く取るのなら「比喩」も当てはまるだろうか。比喩とは表現の手法であり、ある対象に別のイメージを並べて印象深くしたり理解を助けたりする。この道具立てを物語に対しても自覚的に用いることで、『塔』は文学的表現の基礎的な部分を示してくれている。
そもそも何かを表現するとは、当人の意思とは別に、何かが意図されるという性質を持っている。表現は個々の内面から起こるものであるが、それは一度外的な視点を得れば、作者を離れたところで意図が生じるものだ。もしもこの働きが否定されるのなら、意図という概念を誰かと共有するのは不可能と言える。もちろんいくら意図の特権性が失われるとは言え、あらゆる解釈を許すものではない。そこにはいくつかの合意があり、受け取り手たちの共通認識によって境界が示される。
意図がこのような性質を持つことは、表現の仕組みの追究へと道を拓く。そうして結実した営みが芸術と呼ばれるものだろう。『塔』に話題を戻す。この作品は意図の操作で物語を組み立てることの面白さを教えてくれる。すなわちアレゴリーを用いた物語表現について示してくれているのだ。ここからは少し内容に踏み入りながら話を進めたい。
本作は、主人公が七つの鍵が付いた鍵束を螺旋階段から吹き抜けに落としてしまうところから始まる。彼は塔を上っており、その先の七つの部屋を目指している。七つの部屋にはそれぞれ可能性がつまっているらしく、そこを目指す途中の階(きさばし)にいる主人公は常に不安に駆られている。恐怖に襲われている。逃れようとしても、まるで猟犬のように彼を探して捉えるのだ。
まず気になるのは、物語に登場する要素の素朴さと馴染みのなさである。「塔」や「螺旋階段」「七つの部屋」といった素材が特に注釈もなく提示される。その内に説明が続くのであるが、物語の入り口から既に主人公と私たちとの間の関係性は薄い。一体、彼は何故塔に登っているのか。そもそも塔とは何なのか。読み進めると塔についての説明が挟まる。どうやらかつて主人公は塔の外で暮らしており、塔は外から眺めるだけの興味の対象だった。その頃を主人公は「アルカジアの時」と呼んでいる。彼は友人と共に塔の内部について会話を交わし、その興味を膨らませていく。こういった話の展開から、塔の性質についての詳細を理解したり、主人公の素性を想像するのは難しい。それもどうやら意図的に行われているようだと気が付く。ギリギリで形を保ちうる抽象的なオブジェを並べて、何かを物語ろうとしているのである。塔の内部には不安が満ちており、かつて幼い日には興味の対象であった。主人公はアルカジアの時を離れて塔に登っている。これらが示唆する状況になぞらえて、何か物語の線が描けないだろうか。ぼんやりとしたイメージでも、とりとめのない要素の組み合わせでもいい。例えば、豊かな幼年期から遠く離れて、何らかの構造を持つ組織に入るというモチーフが挙げられる。残酷な現状の内で懐古にふける時を過ごすというエピソードは、ありふれた日常に存在する一幕ではないだろうか。こうして描き出したいものをモチーフに込めるという手法が本作では取られている。その際に選ばれたモチーフは、現実から遠い存在であるように思えて、ふと思えば私たちに馴染みがある物事なのだ。象徴的対象の拾い方に優れている。故に世界観は素朴でありながら、読み解く時には重厚な意味を物語に与えてくれるのだ。もしも拾い上げにくいモチーフをちりばめてしまえば、自ずと作品の構成が崩れてしまう。拾い上げやすくすれば、ありきたりな寓話として説教色の強い物語になってしまうだろう。解釈の余地を残して読み応えがありつつ、多層的で多義的な物語を提供する強度を持つ。本作はそんな絶妙の塩梅を保つようにアレゴリーを持ち出す。
また、本作はアレゴリーを貫く「予感」に満ちている。作中に現れる「塔」は内部に「七つの部屋」を持っており、話は主人公が塔の部屋を渡り歩く場面に移る。それぞれの部屋には可能性が詰まっている。一番目の部屋は「主人公が世界の王となる」という場所である。全ては彼の思うがままに事が運び、何一つ不自由ない暮らしを送れる。だが主人公はその境遇に飽きて二つ目の部屋に進むことにする。それぞれの部屋で主人公は何か大きなものを得るが、やがて本来望んでいたものではないと気づいて、また塔を登るのだ。一体、何をめぐる過程なのだろう。この問いかけにより思考を巡らせるのは見立ての行為だ。実際、七つの部屋に理屈をつけて物語が作成できるだろう。作成された物語は一つの解釈となって世に生まれていく。多くの解釈が出揃えば、一体どれが本当なのかという疑いも生まれてくる。そこからあたかも正解の物語があるのではないかという誤解が生まれる。あるいは、完全な唯一の解釈が存在しないと認めながらも、より作中の記述を読み取り、時には作者の経歴さえ調べながら、より作者の意図に近似した物語をすくい取ろうとする傾向がある。確かに物語の共有を主眼に置くのならば、できる限り正確な意図の復元を目指すだろう。だがそうした正答へと競うように至る試みが、芸術の芯となる訳ではないし、楽しみ方の王道ではない。時には不確実な見立てをしてみる。それによって作品世界はさらに拡張されていくのだ。私も『塔』を最初に読んだ際は、あまりの理解の乏しさに、あちこちを空白のままにしてしまった。しかしそれでも面白さは感じられた。アルカジアの時を過ごす主人公が、世界の衰えに直面する場面。美しい蝶を追いかけ、それが塔の部屋の鍵束になる。このオブジェには何か特別なものが隠れていそうな予感がある。アレゴリーへの期待があればこそ、文芸作品の読み込みも楽しく感じるだろう。配置された対象を眺めていると、少し頭をひねっただけでは意味が掴めないとしても、それを抱え続ける価値があるのではないかと思えてくる。そんな自分だけの予感を持ち合わせていれば、後々自分の世界の鍵に成り得るし、別の場所への道標になる時もある。
七つの部屋を辿っていくうち、主人公はそれらの部屋に用意されたものの恐ろしさに気がつく。塔の中で膨らんでいた広大な世界は、幸福ではなくて生とは反対のもの、すなわち死の臭いであると。塔から逃れようとするのだが、部屋の内部への興味に負けて先に進み、やがては最後の部屋の扉を開くことになる。結局のところ、この魅力的なアレゴリーの世界を歩くために、私たちは個々で必要なものを持ち寄らなければならない。多様な読書体験だったり、絵画や音楽を前にして自らの感情を把握する経験だったり、それまでに手にしてきた物体と意図とを用いて、空白のだらけの物語を満足のいく形に整える作業がある。
正解が存在しないのが文学であるとは言われるが、その言葉が励ましになるのは文学という表現に入門できた人だろう。本を開いて文字を追っても何が起きているのか分からない。そんな人たちにとって、本作は「文学というジャンルで行われるのはどんな営みなのか」を知る最良の教科書になるだろう。『塔』は訴求力のある対象によって私たちの想像力を呼び起こし、筋立てはアレゴリーによって形作られ、「何かを秘めているかもしれない」という予感を抱かせてくれるのだ。私はこの作品から受け取ったイメージを使って、何らかの決定的な物語を作り出すつもりはない。いつもこの本を本棚の目につく場所にしまっておいて、何かに行き詰まったり悩んだりするたびに、すぐ取り出せるようにしておきたい。それほどまでに有益な示唆に溢れており、傾倒する価値のある作品であると思うのだ。
了