怪獣


 全ての物事は傾向を知り、対策を施せば上手くいく。曖昧な部分はあるだろうけれど、それは事象の余白だ。僕はそう信じてきた。子供の頃からずっとだ。思い通りに行かないこともある。だがそれは自分の方策が至らないからだ。どこかにはきっと解決の方法が存在しているはずだ。そんな思考は僕を病的な完璧主義からかろうじて救ってくれていた。だが今となっては呪いのように僕の至らなさを浮き彫りにしてくる。
 僕はそんな目にあってもまだ教師を続けたかった。それ以外の自分が見つからない。だから、今度は生徒たちに別の接し方をしよう。そのためにはまずは自分が健康にならなければいけない。そのリハビリ先として離島の学校の教師を引き受けたのだった。
 蝶野という生徒は前評判通りに大人しい。滅多に話さないし、授業以外で話したことは一度もなかった。雑談の類をしてみたかった。何か共通点はないかと探ろうとした。だが、なかなかこちらから話しかけるのも難しい状況になっていた。島民たちは蝶野を心配していた。前の教師は女性だったので問題はなかったが、僕が来たことによって学校では男性と女性が二人きりになるという状態が生まれる。僕の預かり知らぬ所で彼らは策を講じた。学校の近くに住む者が交代で授業の様子を見守ることにしたのだ。厳密に言えば何らかの許可が必要な行為に思えた。彼らは授業中に教室に入り、空いている椅子に座って授業を聞いているのだ。だが断りでもしたら島民たちを敵に回すのは火を見るよりも明らかだった。なので特に誰にも報告せずに黙認した。日替わりで島民たちがやって来た。誰もが僕の授業を興味を持って聞き、やがて質問までしてくるようになった。嬉しくはあったが、蝶野との距離が離れていく気がして焦りも感じた。
 だが何が幸いするかは分からないものだ。僕の授業の監視に来ていた中に、蝶野の親類がいた。彼女の祖父の弟らしい。彼は島で生まれ島しか知らぬ老人であった。この学校の卒業生でもある。身なりがきちんとしていて、おろしたてに見えるワイシャツをズボンに入れて光沢のあるベルトを巻いていた。その日の授業が終わった後で、彼は僕らに声をかけてきた。
「宮さんのいとこの息子さんだったね。すまんね。わたしらはあんたの名前も知らなくて。先生、でいいかな」
「はい」
 ここで名乗るのもどこか居心地が悪くて頷いてしまった。生徒の保護者から先生と呼ばれるのは普通のはずだ。無論、彼は蝶野の直接の保護者ではないのだが。
 宮さんというのは僕の親戚だ。母のいとこにあたる人だった。今は彼女の家に間借りをして住んでいる。母よりも十くらい歳が上のはずだったが、見た目や振る舞いは母よりも若々しかった。島では自分で身動きできない人の介護をして生活している。島民から慕われていた。
「先生のことは悪い人ではないと思ってたんだ。けど、やっぱり本州から来たやつってどこか恐ろしくって」
 蝶野の親戚はそんな風に言って弁解してきた。
 彼は名を久良といった。だが、皆からはひっさまと呼ばれていた。ニックネームだ。蝶野の家族が集まる際には苗字で呼び合うこともできないので、そんな風にお互いに呼び名を決めて過ごしているようだった。蝶野美莉愛のことは「みい」と呼んでいた。
 僕はひっさまのことをおじさんと呼ぶ。距離感がまだ分からないからだ。久良のおじさん。遠くから相手の出方を伺う、常連の野良猫のような位置だ。
 久良のおじさんは僕を夕食に招待してくれた。宮おばさんも同席した。島には昔からの住宅が多かった。典型的な日本家屋だ。縁側があって大きな庭がある。小さな畑をやっている人もいるらしいが、久良のおじさんの家は違った。縁側の見える広い畳の間で、一つの巨大な机を囲む。どうやら今日は僕を歓迎する催しのようだった。誰も明言しないが今まで見かけもしなかった島民の姿があった。自己紹介をしない人もいた。またされたとしても僕はあやふやでしか名前を覚えられない。島の料理と酒が振る舞われた。僕はあまり酒が得意ではなかったが、断ると空気が微妙になるのを恐れて積極的に陶器のカップを空にしていった。
 お手洗いに一度立った時に隣の和室に誰かいるのを見つけた。蝶野だった。僕の受け持ちの生徒だ。彼女は学校からそのままここに来たので制服姿だった。私服が見られないのが残念だった。僕を見つけて蝶野は会釈をした。どうやら今日出した宿題をやっているらしい。
「分からないところとかないかな」
 声をかけられたのは明らかにほろ酔いだったからだ。平静だったらきっとそのまま元の席に戻ってしまっていただろう。
 蝶野は軽く首を振っていた。そして、持っていたシャープペンシルをそっとノートの上に置いた。それが何かの合図のように感じてしまった。僕は蝶野の側に寄って胡座をかく。
「先生は島の料理、好きになった?」
 意外にも話しかけてきたのは彼女からだった。驚きとともに酔いが一気に覚めてしまった。
「魚もお酒もおいしいよ。食べたことが無いものばかりで、どれもおいしくてびっくりしたよ。こういうのを毎日食べられる蝶野は羨ましいなあ。俺が中学生の時はさ、両親が忙しくて外食ばっかりだったから。今もそうだけど」
「毎日は私も食べてないよ。いつもは普通のスーパーで売ってるお惣菜」
 蝶野のどこか怪訝そうな顔に恐れが蘇りそうになる。それでもさらに言葉を紡げたのは酒のせいだろうか。それだけではない気もしていた。
「あの、『あまかけ』ってのは少し僕には甘すぎるかなあ。あのどろっとした白いあんこみたいなやつを、ご飯にかけたりお味噌汁に入れるの。久良のおじさんが教えてくれたけど、何かあったときのお祝いに作るんだろ? 気持ちは大事に受け取りたいな」
 先ほど振る舞われたこの地元の料理を思い出していた。いや、あれは料理というより味付けのようなものだ。あまかけを施された料理は全てが舌がしびれる程に甘くなるのだ。島民たちは白米にも魚にも平気であまかけをする。健康が心配になってくるくらいに。
「私も、あれは嫌い」
 蝶野は視線を逸らして言った。
「甘いものが嫌いなの」
「甘いものは好き」
 過去一番に彼女が積極的になった瞬間だった。島にはない新しい甘さを彼女は求めているようだった。スマホを持たされていなかったが、知識は備えているようで、本州では月ごとに新作のフレーバーが出る喫茶店があるとか、老舗のカスタードクリームを挟んだ焼き菓子のことを話してくれた。僕はそもそも甘いものが好きではなかったので詳しくはなかったが、生徒との雑談のためにニュースサイトは欠かさず覗いているから話題は広げやすい。
 その晩はひどく饒舌な彼女だった。自由に話してくれるのが嬉しく、その言葉のやり取りの一つ一つに過去との記憶が混じって難儀したが、出来るだけ耐えて話を続けていた。自分の弱って敏感になった箇所を鍛えるように受け答えをしていく。
「先生は自転車を持っていないの? 島だと大変じゃない?」
「体力つけようと思って歩いてるんだよ。島はどこも自然が豊かで歩いていると気持ちいいし。自転車も風を受けて走るのが良さそうだけどね。昔から歩くほうが好きなんだ。一駅とか二駅とかなら平気で歩いちゃう。待つのが面倒だったりしてね」
「ふうん。おじさんの蔵に一台、使ってなかったのがあったと思ったけど」
「いや、いいのいいの」
「お試しで借りてみてもいいんじゃないかしら。島の海風はあまかけなんかよりもよっぽど味わう価値があるわ」
 そう言って蝶野は隣室に向かおうとするけれど、流石にそこまで生徒に話をしてもらうのは情けない。僕は先んじて立ち上がり、酒でふらつく足を何とか制御しながら隣に移動した。宴の会場は飲みすぎて大人しくなっている人ばかりだった。その中で宮おばさんは正座をしたまま、久良のおじさんと話し込んでいた。近くにはおじさんの黒く光るベルトが抜き取られて放って置かれていた。腕を支えにして体を後ろに倒すような姿勢をしている。僕の姿とその背後の蝶野の存在に気がつくと話を止めていた。
「あのう。僕、自転車に乗りたいと思いまして。さっき蝶野さんから蔵に一台、余っているものがあるとお聞きしたので」
 僕の願いを聞くと久良のおじさんは何度か頷いてちらりと蝶野を見やる。
 それから昼間に話した時のような適度な距離感を保ちながら言う。
「何だあ。先生は自転車に乗れないのかと思ってましたよお。島を歩きで移動するなんて、よっぽど苦手なんだろうなあって」
「い、いや、僕は乗れますよ」
 僕が弁解すると小さな笑い声がした。女子生徒の笑いだ。僕が教師を辞めた主因とも言える。蝶野は僕の慌てぶりに笑いが抑えきれなくなったのだろう。
 今まではテレビでも少女が笑う度にチャンネルを変えてしまっていた。幼児の笑い声も拒絶するべきものだった。だが、揺れるような蝶野の笑いは僕に危機感を蘇らせない。何が違うのだろう。分析を軽く行ってみる。直観だけれども、蝶野にはこちらを嘲笑うような意図が無いのだ。純粋に傷つけるための笑みではなく、自らの心の内を伝えようとしてくれている真摯なコミュニケーションとしての笑顔だ。驚いて僕は振り返ってしまった。すると蝶野は口に手を当てて真顔に戻り、「ごめんなさい先生」と謝ってくれた。
 僕は久良のおじさんに案内されて蔵に移動すると、一台の黒いスポーツバイクを受け取った。
「譲り受けたつもりで、思い切って使ってくださいよお。遠慮せずにガシガシねえ。でもお、これ、タイヤが細いでしょう。こういう自転車なんですって。少し心もとないけど、先生は自転車に乗れるんですもんねえ」
 またしても蝶野がふはっとくしゃみのように短く笑う。
 僕は次の日からロードバイクで出勤していた。その姿を蝶野に笑われないかと思ったけれど、「どこか壊れていませんでした? 父が乗っていたものらしいんですけど」とこちらを心配するような声掛けさえしてくる。もう教室には見張りの島民はいなくなっていた。

ページ: 1 2 3


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: