一気に彼女との壁がなくなった気がしていた。今までは昼食の時はお互いに黙って弁当を食していたけれど、見張りがいなくなってからは会話が弾んだ。自分の勉強のことや、僕の高校時代の話を聞いてきた。僕は高校時代に弁論部に入っていたのでその時の話をした。
「弁論部は相手を論破する部活だよ」
「ロンパ」
「でも、相手をやり込めてやろうって言うよりは、互いに納得できる場所を探す話し合いみたいなのが多かったかな。こちらが負けても気分は良かった。新しい物事を知れた気分になれたから」
「先生は私を論破できます?」
どこか挑発するような言い方に、僕はかつての本州の生徒たちのような危うい無邪気さを感じ取った。からかいの前触れのようだった。だがそこまで警戒感を抱かない。
「できると思うけど、しようとは思わないな」
蝶野の好奇心を潰さないように答える。恐らく彼女は論破という言葉の意味も曖昧な理解に留まっているのだろう。だからと言って、こちらから指摘はしない。僕は久々に心に余裕があるのを感じていた。一人の生徒を前にして気持ちを広く保持できていた。
昼食の時間が終わり、何故臆せずに彼女と接していられるのかを考えていた。午後の授業が始まるまでの時間だ。蝶野はいつものようにこの時間はぼうっと外を見て過ごしている。この島の環境で育った子だからだろうか。いささかそれは怪しかった。もし本州のあの子らがここで生まれ育っても、人が変わったようにはならないだろう。きっと蝶野という個人が僕の教師としての姿勢に適した性格を持っているのだ。
過去に勤めていた学校にも、きっと彼女のような生徒はいた。感知できなかったのだ。視野が狭かった。だが、そんな自分を責められるだろうか。あまつさえ未来からの視点においてなのだ。あの頃は片足を深さの分からない沼に突っ込んでしまったような焦りに支配されていた。
次に出会う教室では、蝶野のような生徒が必ずいると肝に銘じて見逃さないようにしよう。気持ちの整理をつけた頃に休み時間が終わった。
午後からの授業も終わった。心が楽になったとは言え、授業への向き合い方は変えなかった。きっと彼女は騒がしいのが苦手だろう。声を張らずに、しかし聞き取りやすいようにゆっくりと話す。初日から一貫して心がけていた。そして一日が終われば教室の前で蝶野を見送ろうと待つ。これも初日からの習慣だった。自分の席で帰り支度をする彼女を待った。すると、この教室には不似合いな金属の音が響いた。窓の外を眺めていた僕は視線を向ける。
床に落ちていたのは工具だった。慌てて蝶野は拾い上げてスクールバッグにしまい込んだ。僕は横目で目撃していたが、視線を教室の外に向けて気づかぬふりをした。彼女も何もなかったように振る舞っていた。小さく会釈をして自転車置き場へと歩いていく。どうして工具を持ち歩いているのだろうか。何の目的だろう。ちらりと目にしただけで形については仔細まで覚えていなかった。名称も分からない。だが見覚えはある。知らない訳ではない。だが何に使うのかまでは分からない。スマホを取り出して「L字型 工具」で検索すると曲がったレンチが出てきた。どうやらソケットレンチというらしい。見たことはあるが名前までは知らなかった。用途はボルトやナットの着脱だ。普通のレンチでも出来ることだが、ソケットを交換することでいろいろな種類のボルトとナットに対応できる。しかもハンドルが付いているので楽に回せるらしい。そんな豪華版レンチのようなものをどうして蝶野はスクールバッグにしまっていたのだろうか。学校に持ってきていたのだろうか。
気にはなったが、それでも僕は見ないふりをしたのだ。言及する訳にもいかない。僕らはそれからも何事もなく日々授業を行なっていた。季節は秋になりつつある。蝶野との距離は一旦は縮まったが、それからは教師と生徒という立場にふさわしい間をとっていた。僕は一日ごとに自信を得ていた。これならば教職に復帰できる日も近いのではないか。あの時に飛び出した工具については忘れてしまっていた。
ある日、昼食後に蝶野と会話をしていると甘いものの話になった。以前「あまかけ」の話題から発展してやり取りを交わしたのを思い出した。彼女の祖父の弟である、久良さんの家での出来事だ。あれから彼女とも親しく話が出来るようになった。
「ダンキードーナツって知ってる? 先生。週替わりで色々な味が出るんだって」
「ああ……みんな大好きだよね」
「今度の三連休に本州に行くの。遊びに。お姉ちゃんが呼んでくれたんだ。その時にダンキードーナツを食べようって」
僕は瞬きの間に思い出す。前の学校の側にもダンキードーナツの店舗はあった。生徒たちのたまり場になっていた。今日もきっと彼女らは集っているのだろう。その想像の中に蝶野の姿が混じってはっとした。彼女の姿は違和感なく挟まってきた。
「楽しんできて。ここにはない色々なものがあるから」
「はい。二年生になったら進路も考えなきゃいけないし」
「進路?」
とぼけた声を出してしまった。教師の立場としては良くないだろう。中学二年生から将来について考えるのは何らおかしな話ではない。むしろ推奨されるべき姿勢なのだから。だがどうしてそれが本州に遊びに行く話と繋がるのだろう。蝶野は本州への進学を考えているのかもしれない。僕の先ほどの想像が現実に接近しようとしている。予感が引いていった儚く薄い線を辿ると、そこには未来が待ちかまえているような気がした。
僕は首を振る。何もおかしい話ではない。蝶野のような子だってきっと本州にはいるのだ。僕の笑い声をからかわないような子だ。自分に言い聞かせる。しかし想定した現実を拒絶したくなる心があった。僕は否定し続ける心持ちでいたが、やがて受け入れる必要があるのだと思い始めた。それでも、蝶野のような子はこの島にしかいないと、彼女を特別視したい心境は拭い去れない。だとしたら、僕がいずれ向かう本州には彼女のような子がいないことになる。
「蝶野は本州に進学したいのかな」
しばらく沈黙してしまったので、話の流れは一旦切れているだろう。だからこそ聞いておきたい事柄を真っ直ぐに尋ねた。
「まだ分からない」
「高校生になったらどの道、この島以外のどこかに行かなきゃいけないんだよね。それなら選択肢は広く持っていたほうが良いよ」
この島で教師をしている人間ならば与えるであろう、何の変哲もない助言をした。何せ僕は僕のことで精一杯だったから(それも教師としてはどうかと思うけれど)、蝶野が進路の話を始めた時には、今度の休みにダンキードーナッツを訪れるという軽い話の延長線上にある出来事として受け止めてしまったのだ。自分にもこれからがあるように、彼女にも同じように将来がある。
蝶野が帰路についてから、学校でしばらく書類仕事をして、夕日が沈もうという頃には校舎の戸締まりをして帰ろうとした。ロードバイクを漕いで舗装されていない道を走っていく。振動が少し体に響くけれど、速度が出るので通勤はかなり楽になった。暗くなってきた砂利道を進んでいると突然自転車の制御が効かなくなった。ハンドルが何かにとられるように曲がっていく。危険を察知して僕は減速したから事故にはならなかった。スマホで自転車の前輪を確認すると、軸の辺りのボルトが落ちてしまっていた。
仕方がないので自転車を引いて歩きだした。よく辺りを確かめると久良さんの家が近いのが分かった。応急手当てでもしてもらえればと思って立ち寄ろうと決めた。突然の訪問にも久良さんは快く迎えてくれた。
「こりゃタイヤが落ちてもおかしくなかったなあ。申し訳ない。渡す前によく見ておくべきだったなあ」
「乗ってるうちに気がつければ良かったんですけど」
「庭の方に回ってもらえますか? ちょびっと見ちゃいますよ」
僕は言われた通りに自転車を敷地内に運び入れた。蔵の前に停めると久良さんは縁側からつっかけで歩いてきた。手に持っていた鍵で蔵の扉を開き中に入っていくと、真四角の入れ物を運んできた。金属製で重厚な造りをしている。取っ手も握った時の手の形に模られていた。蓋が開いてそれが工具箱だと分かった。久良さんは物音を立てて箱の中から何かを探していた。だがなかなか目的のものが見つからないようだった。僕はぼんやりとその様子を見つめながら、次に何が起きるのかをひたすら眺めていた。久良さんは一本の工具を選び出すと、自転車のナットを軽く締めて僕に引き渡した。
「週末にでも寄れますかね。やっぱりタイヤはもっと太いのにしときましょう。替えのはあるはずですから。あいつは自転車が好きで、ここにはそういうのばかり揃ってるんですよ」
僕はお礼を言って元の帰り道についた。あいつというのは蝶野の父のことだろうか。そんな思考を巡らせながら走り家に着く頃には海の向こうから連絡船が近づいてくるのが見えていた。
了