カテゴリー: 読書エッセイ

  • 人間の変身あるいは不完全変態について 小山田浩子『はね』

     一生のうちにその姿を変える昆虫がいて、それを変態というのだが、要するに私の世代などはポケモンにおける「進化」と理解するのが容易いだろう。ポケモンでは個体をあるレベルまで育成すると、軽妙な音楽と共に姿を変化させるイベントが起きる(その軽妙な音楽の途中でキャンセルボタンを押し続けると、変化を強制的に止める事ができる)。しかし本来の進化という現象は、同一個体での姿形の変化ではない。世代を超えてその個体における変化を言う。つまりポケモンにおける進化とは厳密に言うと変態なのである。ただ開発者たちはゲーム中に変態変態と連呼させるのはよろしくないと判断したのか、(当時の技術的環境で表示できるのはひらがなのみだったので、「へんたい」と表示されることになる。ひらがなならいくらかまろやかになる気もするが、そういう問題でもないのかもしれない)「進化」という概念が発明されたのかもしれない。


     昆虫が姿を変える変態(ポケモンにおける「進化」だ)は幼虫がやがてサナギになり成虫になるのと、幼虫が脱皮を繰り返して成虫になるパターンがある。前者を完全変態、後者は不完全変態と分類される(教養の範囲でポケモンの例えを使うと、バタフリーはトランセルを経由するので完全変態であり、モルフォンはサナギの状態がないので不完全変態となる。どちらも成虫の見た目は蝶なのに不思議だ)。変態を行う生物を見ていて興味深いのは、ある瞬間が来ると次の段階に移行するために姿を変え始めるが、その一瞬の心のはたらきはどのようなものだろうかという点だ。セミの幼虫が木に登って羽化する時には、いざ地中から出ようと決する瞬間があるはずだ。思考は作用せずに本能で行っているのだとしても、どんな衝動が体内で生じているのかは想像の余地がある。生物の反射的な行動は内面から説明できずとも、外から俯瞰して解説できる。正しいかどうかはどうでもいい。そこに想像力を介入させられると自覚できるのは大切だと思う。創作の面でも生きていく上でも。例え科学的にセミの心的な決断が完璧に理解できたとしても尚、そんな内的変化の行方はどのようなものだったのかについては、考え尽くす意味がある。幼虫の状況からどんな心持ちで決断を済ませたのだろうか。自らの行く末を誰からも教わらず、誰の営みも目撃した訳ではない。ただそれを本能と片付けるのはいささか勿体無い。そこで横滑りするように思考を展開させて、人間だったらどうなるだろうかと考える。人間がサナギになったり成虫になったりするタイプの生き物だと想像してみよう。そこで人間の変態を何らかの作品のモチーフとして加えたらどうだろう。そこには変態という現象の奥に秘められた、本能の一言だけでは片付けられない衝動の姿があるはずだ。


     小山田浩子の『はね』はそうした人間の変態を描いた作品だ。主人公の高梨くんは中学受験に失敗した少年である。そんな彼に母は「家庭教師の指導を受けてみないか」と提案する。彼には昨年結婚した従兄がいて、その配偶者のホナミさんが生徒を探しているというのだ。母の話によれば、ホナミさんが家庭教師をするのは、収入的な問題があるからではなく、精神的な問題からだという。気持ち的な問題、あるいは気分的な問題といったところだろう。身内の家庭教師ということで母もさほど実績についてはシビアに捉えておらず、主人公も前向きではなかったにせよ承諾する。そんなホナミさんと主人公の交流が描かれた作品である。先に私が考えていた人間の変態の問題があるが、この物語は生物的な自覚の中で移り変わる変態ではなくて、社会的な機能により姿を変える変態を扱っているように思える。私とは違うアプローチというか、話は逆で、この作品を読んでから私は人間の生物としての変態のあり様について思考を巡らせ始めた。その幾ばくかのSF然としたひらめきを産んでくれた、『はね』という作品は変態における一幕をハードボイルドに描ききっている。主だった社会的な羽化の一瞬を、外的な視座を担う筆致で徹底して扱うからだ。


     さらにもう一つ、変態における視点がある。端的に示すと、身体的変化と精神的な変化である。本作で扱うのは後者だ。主人公の家庭教師となったホナミさんだが、主人公の家に来るのではなくて、彼女の家に通うという形で交流が始まる。ここが変則的だと思うが、道具立てを用意するにはやむを得ない設定だろう。彼女の家が出てこなければ、彼女の心は分かりにくくなるし、主人公を中学生の男にしなければ、視点の硬質さに綻びが出る可能性がある。主人公はホナミさんに勉強を教わるだけではなくて、ヤゴの観察をする。ホナミさんはメダカを飼っていて、その鉢にヤゴが紛れ込んでいたのだ。捕まえたはいいものの退治するのも忍びないということで、棲家を別けてヤゴの飼育も始めるのである。主人公とはヤゴがトンボになるところまで見届けることになる。ホナミさんの配偶者はまるでヤゴやメダカといったものに興味はなく、ヤゴが羽化する場面においても、せいぜい無関心さを露わにしないように振る舞うだけである。この主人公の従兄、ホナミさんの配偶者は彼女の心の変化を予感させるために必要な要素だろう。あまり飲み物の趣味が合わなかったり、ちょっとしたコミュニケーションのすれ違いがあったり、彼はホナミさんの理解者ではなくて、あくまで夫という役割を意識付けさせる存在だろう。家庭という社会的構造の中においてホナミさんの役割を明確に描き出すために、良いモチーフとして存在する。さらにホナミさんの趣味のものは、壁にかかっている絵やメダカの入った鉢が登場する。これらに関しても、絵はその作者が「普通に就職して結婚した」とホナミさんに語られることにより、メダカはこれから冬を迎えると心配されることにより、これより先にホナミさんに何らかの変化が訪れるのを予感させている。物語は最後にホナミさんが妊娠をして、主人公の家庭教師から降りるという展開に至る。そして、次に主人公が彼女に会った時には壁にかかった絵も、メダカの鉢も存在しなくなるのである。ここにホナミさんの精神的な羽化が表されている。人間の変態のあり方として、社会構造における役割の変化というものを考えてみよう。新婚のホナミさんが自らの役割に抗うように持ち続けたものは、出産という出来事により消え去り、やがては羽化せざるを得なくなってしまう。構造の中に押し込められた彼女は結果的にそこで変態するのである。だが、それが望む故に起こったのか、望まむうちに起こったのかは明確ではない。このホナミさんの変態を察するには、物語としては彼女を主人公にするのが最も効果的なのであろう。しかし、あくまで視点は中学生の主人公にある。外から観察するという試みによって、彼女の変化は外的な事実を手がかりに読み解くしかなくなっている。硬質な読み口に繋がる重大な要素だろう。


     思うに、主人公がホナミさんではないという点は、人間の変態をヤゴの変態のように読み替える仕組みとして用意されたものではないか。観察者としての役割をこの彼は担っているように思える。結果的にホナミさんと羽化まで見守ったヤゴは飛び立ったはいいが、主人公のリュックにへばりついて死んでいるのが発見される。彼がその事について心的な描写を任されてはいない。ただ読み解く手がかりとして、私たちに与えられているのはトンボの死骸をホナミさんの元から去った後も持ち続けている、という描写である。この千切れてしまって死んでいるトンボはきっとホナミさんの心の抜け殻なのだろう。主人公はそれを持ち続けている事で、彼女がまだ社会的構造に促されるように変態したのを覚えている。あたかもヤゴを見つめていたホナミさんのように、主人公は生物の変態という移り変わりをしっかりと理解しているのだ。こういった変化の物語に主人公の存在は寄与している。


     変態したホナミさんとそれを見つめる主人公の関係性を最後まで見ていると、新しく考えておきたい題材が浮かんでくる。一つは最初に書いたような、生物の反応としての変態を人間の身体に当てはめて描くというものだ。変態に至るまでのきっかけをドラマとして展開できるのなら、それはSFの分野で取り扱われるべきものかもしれないが、興味深いテーマになりそうだ。自然生物として変態をするようにプログラムされた場合、一体どんな心理が人間に生まれるのだろうか。そしてもう一つはホナミさんのように社会的な役割に影響されて変態を選ばざるを得ない人と、どうしても選べなくて変態できなかった人の対比だ。特に後者は羽化に失敗したセミのような不気味さと共に荘厳さを感じさせるのではないだろうか。今はインターネットにセミの羽化に失敗した死骸の画像がたくさん転がっている。検索して閲覧される方は自分の責任でお願いしたい。羽化途中で力尽きたセミの姿は、一見するとショッキングであるが、私は生命の巨大な流れを捉えた荘厳なモチーフであると感じてしまった。眺めている内に、「それでは心の羽化に失敗した人間の姿はどんなものだろうか」というのが気になった。それは物悲しいのだろうか。それとも厳かなのだろうか。仕組みからの逸脱者は漂流するか求道に生きるかではないだろうか。もしもホナミさんも羽化に失敗していたとしたら、どのような結末に変わったのだろうか。社会的な役割を大局的な視点から語るのは主人公の母親である。彼女は表向きはにこやかな善人を装っていて、腹の中では規範意識が染みついた言動を主人公に投げかける。もしくは取り留めのない世間話の場面で、己の価値観を忌憚なく話して分相応の振る舞いについて愚痴を吐く。彼女は彼女でホナミさんや主人公の生きる価値観の外郭を規定する存在なので、必要な要素ではある。こういった壁によって作られた世界からはおおよそ逸脱など考えるのも難しいだろう。この母親が世間の有り様を示す事で、作中における人物たちの選択肢は少しずつ決まっていく。では、選択肢を広げるとどうなるのだろうか。羽化に失敗したホナミさんの姿を描くのなら、社会構成の役割を人生の中心にして生きてきた人たちから攻撃されるかもしれない。羽化に失敗した生物が死ぬしかないように、同じ運命を辿るしかないのだろうか。


     このように『はね』は人間の精神の変態についてを描き、それに留まらずに発想までを助けてくれる傑作である。最後に一つ不思議な箇所を取り上げたい。主人公とホナミさんがヤゴの羽化を見守る場面にて、ようやく殻から出てきたトンボは片方の羽がしわくちゃになってしまっている。いつまでもトンボは飛び立たない。羽が綺麗に展開されなければやがては死が待っている。羽化の失敗である。主人公とホナミさんは心配そうにトンボを気にかける。だがいつの間にかトンボはいなくなっていて、二人はトンボが無事に飛び立ったのを喜び合う。しかしながら、トンボは主人公の鞄に潰されるようにして死に絶えてしまっていた。この羽化の成功と失敗の両面が現状の上に覆い被さるようにして、あたかも重ね合わせた世界のようにも感じさせてくれるのだ。トンボの羽化が失敗しかけているという予感を持ち出して、羽化の失敗への予感を匂わせている。実際の所、ハスミさんは羽化に成功したのだろうか。二重の可能性を考慮するとそんな疑いまでもが頭をよぎるのである。そもそも羽化に成功するとは、社会的な構造の要請に応えて上手く変態することなのだろうか。要請を無視し反抗して振る舞うのが羽化の失敗なのだろうか。生き物にとっての正解が生き残ることであるのなら、構造に押し込められて役割を全うするのは羽化の失敗なのではないか。ここで社会の価値観と個人の価値観の衝突が生まれてしまう。その視点を手にしてしまうと、ハスミさんは結局羽化に成功したのか、それとも失敗したのか、そちらに考察が流れていってしまう。人間の変態を余す事なく描き切るには、それが成功であれ失敗であれ、変遷に自覚的であるべきだろう。本作はこうした可能性を含ませつつも、主人公のニュートラルな視点を噛ませる事で一定の歯止めを用意している。余韻として考察を提供してくれる、実に読み応えのある一編である。

  • アレゴリーの世界へ 福永武彦『塔』 

     本作を読むにあたって最初に触れずにはいられないのは、その筆致である。『塔』という作品を組み立てている文章は一文一文が巧みに計算されたオブジェのようだ。少し日本語の文法とそれにまつわるジレンマの話をしておこうと思う。分かりやすい文章を書こうとするのならば、結論から言えば、日本語は主語と述語(主部と術部)をくっ付ければくっ付ける程、読みやすく分かりやすくなる。私は様々な文章作法の本を読み漁ってきたが、概ね結論は同じようなものだったと記憶する。とにかく主語と述語の関係を気にするかどうかで日本語の文章の読みやすさは変わる。本格的な話を始める訳にはいかないが(これはあくまで『塔』についての話なので)、例えば「私」という主語から始める文章があったとする。

    「私は塔という本を読もうとしている」

     ここで主語は「私」となり、述語は「読もうとしている」となる。厳密には異なるのかもしれないが、概ねの理解としてこう定義しておく。そして、この主語と述語の中に文を挟むことで、様々な彩りが出てくる。

    「私は久しぶりに塔という本を読もうとしている」
    「私はもう捨てたと思っていた夢を諦められずに、自らの原点となった作品である塔という本を読もうとしている」
    「私は引っ越すたびに本棚を買い替えているのだが、常に棚の目立つところには一冊の本が入っていて、それは学生時代にふと立ち寄った古本屋で見つけたものなのだが、福永武彦の塔という本で、久しぶりに手に取って読もうとしている」

    こうして主語と術語の間にまた主語と術語を入れたり、術語を二つ出して繋いでみたり、色々な手法で元々の主語と術語のみで成り立つ文章を膨れさせられるのである。だが、これらは少し読みにくい。読みやすくしようとするなら、少し中身を削った方が良さそうだ。ただし、読みやすさのために削りすぎると文章が淡白になってしまう。「私」と「読もうとしている」の間にどれ位の内容なら適切だと言えるのだろうか。また、一文を区切るという手法もある。上の例で言うならば、

    「私は引っ越すたびに本棚を買い替えている。常に棚の目立つところには一冊の本が入っている。それは学生時代にふと立ち寄った古本屋で見つけたものだ。福永武彦の塔という本だ。久しぶりに手に取って読もうとしている」

    こう直してしまえば読みやすくなる。リズムもいい。だが、これを何ページも続けると次第に文章が単調になってくるので、時々は文章を繋いでしまいたくなる。この文章の区切り方には美的感覚が必要だろう。先に述べた「主語術語の間にどれだけの文を詰めるか」、そして「主語術語の区切りをどう意識するか」、これらを突き詰めて行くと一つの理想に辿り着く。

    「読みやすくて、さらには内容も彩りがある文章」

    こんなに欲張りな文章を日本語で追究する時はいつでも、主語と述語の問題と向き合わなければならない。美しくしようとすればするほど読みにくくなるが、読みやすくしようとすればするほど素朴にならざるを得ない。このジレンマと日本語は戦う宿命にあると思う。話が少し遠回りになったけれども、福永武彦の『塔』はその美意識にしっかり挑んだ稀代の作品だ。本文を少し引用してみよう。

     僕は塔の中にいた。塔は一つの記憶だった。しかし僕は明かにこの記憶を探り出すことが出来ない。僕は今や記憶さえも喪ったのだろうか。そして僕は、自分が今、時の流れのどこに立っているのかを知ることも出来なかった。ただ不安と絶望と恐怖との中で、痴呆のように佇んでいた僕にも、塔は希望と光明と幸福とを舞台として、恰も夜を貫く閃光灯台の灯のように、過去の断片を再現した。

     作者の福永は詩の分野でもその名を知られる。こうして一節を引いただけでも、字句の隅々までに意識を配ったバランス感覚と、音読と黙読のどちらのアプローチからでも実感できる音の心地よさが伝わってくる。一文のみの完成度を求めるのではなく、総体としての文章の出来栄えも意識されている。まるで数学的な理知の上に成り立つ美術品のような趣がある。日本語の特性を知り尽くしていなければ、このように主語と述語の間合いを絶妙に扱えまい。まるで黄金律を駆使して作られる、端正な小細胞の如き文章である。
     ではこのような精緻な文を土台として語られる作品はどのようなものだろうか。実に本作は巧みな構造を持っている。しかしそれは一文の段で心を砕かれた硬質的な趣を引き継ぐのではない。私が『塔』を傑作と断じるのは、先で語ったような機能性と実用性を兼ね備えた均整な文章を用いて、多彩な解釈を許す世界観で物語を構築しているという点にある。とりわけ、アレゴリーという手法を用いて。

     アレゴリーは日本語に訳すと「寓意」である。広く取るのなら「比喩」も当てはまるだろうか。比喩とは表現の手法であり、ある対象に別のイメージを並べて印象深くしたり理解を助けたりする。この道具立てを物語に対しても自覚的に用いることで、『塔』は文学的表現の基礎的な部分を示してくれている。
     そもそも何かを表現するとは、当人の意思とは別に、何かが意図されるという性質を持っている。表現は個々の内面から起こるものであるが、それは一度外的な視点を得れば、作者を離れたところで意図が生じるものだ。もしもこの働きが否定されるのなら、意図という概念を誰かと共有するのは不可能と言える。もちろんいくら意図の特権性が失われるとは言え、あらゆる解釈を許すものではない。そこにはいくつかの合意があり、受け取り手たちの共通認識によって境界が示される。
     意図がこのような性質を持つことは、表現の仕組みの追究へと道を拓く。そうして結実した営みが芸術と呼ばれるものだろう。『塔』に話題を戻す。この作品は意図の操作で物語を組み立てることの面白さを教えてくれる。すなわちアレゴリーを用いた物語表現について示してくれているのだ。ここからは少し内容に踏み入りながら話を進めたい。
     本作は、主人公が七つの鍵が付いた鍵束を螺旋階段から吹き抜けに落としてしまうところから始まる。彼は塔を上っており、その先の七つの部屋を目指している。七つの部屋にはそれぞれ可能性がつまっているらしく、そこを目指す途中の階(きさばし)にいる主人公は常に不安に駆られている。恐怖に襲われている。逃れようとしても、まるで猟犬のように彼を探して捉えるのだ。
     まず気になるのは、物語に登場する要素の素朴さと馴染みのなさである。「塔」や「螺旋階段」「七つの部屋」といった素材が特に注釈もなく提示される。その内に説明が続くのであるが、物語の入り口から既に主人公と私たちとの間の関係性は薄い。一体、彼は何故塔に登っているのか。そもそも塔とは何なのか。読み進めると塔についての説明が挟まる。どうやらかつて主人公は塔の外で暮らしており、塔は外から眺めるだけの興味の対象だった。その頃を主人公は「アルカジアの時」と呼んでいる。彼は友人と共に塔の内部について会話を交わし、その興味を膨らませていく。こういった話の展開から、塔の性質についての詳細を理解したり、主人公の素性を想像するのは難しい。それもどうやら意図的に行われているようだと気が付く。ギリギリで形を保ちうる抽象的なオブジェを並べて、何かを物語ろうとしているのである。塔の内部には不安が満ちており、かつて幼い日には興味の対象であった。主人公はアルカジアの時を離れて塔に登っている。これらが示唆する状況になぞらえて、何か物語の線が描けないだろうか。ぼんやりとしたイメージでも、とりとめのない要素の組み合わせでもいい。例えば、豊かな幼年期から遠く離れて、何らかの構造を持つ組織に入るというモチーフが挙げられる。残酷な現状の内で懐古にふける時を過ごすというエピソードは、ありふれた日常に存在する一幕ではないだろうか。こうして描き出したいものをモチーフに込めるという手法が本作では取られている。その際に選ばれたモチーフは、現実から遠い存在であるように思えて、ふと思えば私たちに馴染みがある物事なのだ。象徴的対象の拾い方に優れている。故に世界観は素朴でありながら、読み解く時には重厚な意味を物語に与えてくれるのだ。もしも拾い上げにくいモチーフをちりばめてしまえば、自ずと作品の構成が崩れてしまう。拾い上げやすくすれば、ありきたりな寓話として説教色の強い物語になってしまうだろう。解釈の余地を残して読み応えがありつつ、多層的で多義的な物語を提供する強度を持つ。本作はそんな絶妙の塩梅を保つようにアレゴリーを持ち出す。

     また、本作はアレゴリーを貫く「予感」に満ちている。作中に現れる「塔」は内部に「七つの部屋」を持っており、話は主人公が塔の部屋を渡り歩く場面に移る。それぞれの部屋には可能性が詰まっている。一番目の部屋は「主人公が世界の王となる」という場所である。全ては彼の思うがままに事が運び、何一つ不自由ない暮らしを送れる。だが主人公はその境遇に飽きて二つ目の部屋に進むことにする。それぞれの部屋で主人公は何か大きなものを得るが、やがて本来望んでいたものではないと気づいて、また塔を登るのだ。一体、何をめぐる過程なのだろう。この問いかけにより思考を巡らせるのは見立ての行為だ。実際、七つの部屋に理屈をつけて物語が作成できるだろう。作成された物語は一つの解釈となって世に生まれていく。多くの解釈が出揃えば、一体どれが本当なのかという疑いも生まれてくる。そこからあたかも正解の物語があるのではないかという誤解が生まれる。あるいは、完全な唯一の解釈が存在しないと認めながらも、より作中の記述を読み取り、時には作者の経歴さえ調べながら、より作者の意図に近似した物語をすくい取ろうとする傾向がある。確かに物語の共有を主眼に置くのならば、できる限り正確な意図の復元を目指すだろう。だがそうした正答へと競うように至る試みが、芸術の芯となる訳ではないし、楽しみ方の王道ではない。時には不確実な見立てをしてみる。それによって作品世界はさらに拡張されていくのだ。私も『塔』を最初に読んだ際は、あまりの理解の乏しさに、あちこちを空白のままにしてしまった。しかしそれでも面白さは感じられた。アルカジアの時を過ごす主人公が、世界の衰えに直面する場面。美しい蝶を追いかけ、それが塔の部屋の鍵束になる。このオブジェには何か特別なものが隠れていそうな予感がある。アレゴリーへの期待があればこそ、文芸作品の読み込みも楽しく感じるだろう。配置された対象を眺めていると、少し頭をひねっただけでは意味が掴めないとしても、それを抱え続ける価値があるのではないかと思えてくる。そんな自分だけの予感を持ち合わせていれば、後々自分の世界の鍵に成り得るし、別の場所への道標になる時もある。
     七つの部屋を辿っていくうち、主人公はそれらの部屋に用意されたものの恐ろしさに気がつく。塔の中で膨らんでいた広大な世界は、幸福ではなくて生とは反対のもの、すなわち死の臭いであると。塔から逃れようとするのだが、部屋の内部への興味に負けて先に進み、やがては最後の部屋の扉を開くことになる。結局のところ、この魅力的なアレゴリーの世界を歩くために、私たちは個々で必要なものを持ち寄らなければならない。多様な読書体験だったり、絵画や音楽を前にして自らの感情を把握する経験だったり、それまでに手にしてきた物体と意図とを用いて、空白のだらけの物語を満足のいく形に整える作業がある。

     正解が存在しないのが文学であるとは言われるが、その言葉が励ましになるのは文学という表現に入門できた人だろう。本を開いて文字を追っても何が起きているのか分からない。そんな人たちにとって、本作は「文学というジャンルで行われるのはどんな営みなのか」を知る最良の教科書になるだろう。『塔』は訴求力のある対象によって私たちの想像力を呼び起こし、筋立てはアレゴリーによって形作られ、「何かを秘めているかもしれない」という予感を抱かせてくれるのだ。私はこの作品から受け取ったイメージを使って、何らかの決定的な物語を作り出すつもりはない。いつもこの本を本棚の目につく場所にしまっておいて、何かに行き詰まったり悩んだりするたびに、すぐ取り出せるようにしておきたい。それほどまでに有益な示唆に溢れており、傾倒する価値のある作品であると思うのだ。